
大阪から車で走ること約4時間。名神高速、中央自動車道を乗り継いだ木曽山脈の山中に木曽路はあります。中山道六十九次のうち贄川宿から馬籠宿までの十一宿、そのうちの江戸時代の面影を色濃く残す3つの宿場町・馬籠、妻籠、奈良井を旅して来ました。今回はその2回目です。
古い街並みを後世に残す取り組み〜妻籠宿

近年、馬籠宿とともに外国人観光客に人気のある妻籠宿。江戸時代の面影を色濃く残し、日本の屋根と称される日本アルプスの一つ木曽山脈の山深い景色と相まって、一歩踏み入ればまるでタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。
今でこそ観光客を魅了してやまない妻籠宿ですが、そこには住民の努力がありました。

車で妻籠を訪れるには、蘭川を挟んだ岸にある町営の駐車場を利用します。宿場町と繋ぐのは尾又橋。とても古い橋でレトロな風情が旅情を誘います。蘭川は水量がとても豊富で、すぐ近くには水力発電所が設けられています。

橋を渡って宿場町内へ入ると、そこはもう江戸時代。電柱などといった近代的なものはほぼ目にしません。アスファルトが敷かれている部分もありますが、車両の乗り入れは規制されているようです。

宿場内の街道を北に向かって進みます。途中の升形までの街を寺下地区といいます。この寺下地区こそが、日本で最初に宿場保存事業が行われた場所なのです。
江戸時代には東海道と並ぶ江戸と京都を結ぶ大動脈の宿場町として発展してきた妻籠。人の行き来が厳しく制限されていたからこそ街道筋は発展して来たのです。ところが明治になり鉄道や道路が新たに作られるようになると宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途を辿るようになりました。
時代は昭和になり高度経済成長期の中、江戸時代の街並みを保存しようとする運動が起こりました。
「売らない・貸さない・壊さない」
観光開発推しての集落保存が提起され議論の末、昭和43年に「妻籠を愛する会」が発足し、上記の三原則の元景観の保存に務め、昭和51年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

宿場の中ほどまで行くと升形があります。妻籠の升形は寺下町と上町との境目に造られ、高低差を利用して高台に光徳寺が配置されています。

升形に建てられた光徳寺は禅宗である臨済宗のお寺です。1500年に開山されたと言われています。
さて、もう少し上町を歩きます。升形で二手に分かれた道の高い方に本陣がありました。

妻籠宿の本陣は島崎家が勤めていて、馬籠宿の本陣・島崎家とは親戚関係にありました。島崎藤村の母の生家でもあり、最後の当主は馬籠から養子に出された藤村の兄でした。
藤村の小説・夜明け前には本陣の役割、仕事などが事細かに描写されています。中山道を使う大名や公儀、例幣使などは意外にも多かったようです。東海道のように大きな川を渡らなくて良いからでしょうか。
本陣の持つ役割は単純に大名が泊まる、休憩する場所であるだけではなく、その名の通り戦などで設営される「陣」だったのです。大名が泊まる・休むとなると、幕が張られます。寝具、食器などは各藩が用意して持ち込みます。そして継立てと言って、宿場から宿場へと大名家の荷物を運ぶ際に人馬の提供をしていたのも問屋を兼ねた本陣なのでした。
現在の本陣は、明治に入って一度壊されたものを平成7年に完全復元したものです。

このように、住民の方の古いものを現代に、未来に残そうとする努力が多くの観光客を惹きつける魅力ある宿場町となったのです。
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